人並みになりたい

ただただ思いついたことを書く。失恋しがちな社畜の記録。

勝ち組と負け組

焼酎をトマトジュースで割ろうと思って、焼酎瓶の中身に貰い物の梅酒を入れていたことをすっかり忘れて入れてしまった。

梅酒のトマトジュース割とかいう予想外のものができてしまった。

 

結局酒に手を出しています。

99.99(フォーナイン)とかいう、アル中製造酒の最終形態みたいな酒を今日飲んでみたのだが、案の定とてもおいしかった。

安酒によくあるアルコールがキツく鼻を抜ける感じがないから、なんとなくレモンの香りのする水をがぶ飲みして気づいた頃にはアルコールが回ってる、みたいな。

とりあえず、SAP〇OROさんはやばいものを世に出してしまったな、っていう感想から今日は始まります。

うん、これから毎日飲もう。

 

例にもれず、今回も髪を切った。

イメージは本田翼くらいの。全然違うけど。

明日職場に行ったとき、彼の心に少しでもざわめきを起こさせることができたら万々歳。

こんなこと考えてる時点で私も相当幼稚なのだが。

これくらいしか、私のショックをごまかす術がない。

髪をばっさり切って、私を振った相手に少しでも意識を向けてもらうことくらいしか。

女性が髪を切るというのは、けっこう勇気がいる。

やはり女性=髪が長い、という方程式がいまだに存在していると思う。最近はショートヘアの女性も増えてきたが。

そんな世界にあえて反逆の狼煙を上げるがごとく、ショートヘアにする。失恋のショックというものはそれだけ大きい。

(そもそも今回の失恋というのも8割は己のせいではあることは、今回は触れないでおこう)

 

 

 

話は変わるが、私はどうやら、自分が幸せでないときは他人の幸せが許せないらしい。

この世界に生きている人間の何割かはわからないが、少なからずそういう人間がいるであろうことはたしかだろう。

例えば、自分に彼氏がいて且つ交際が順調な時。そんなときは自然と周りの恋愛だって応援できるし、相談にだって乗る。

だが、反対に自分がどん底、または彼氏がいないとき。そんな時は周りの幸せな人々の姿が嫌に目に焼き付いて、苛立ちを覚えてしまう。相談されたって、親身に話なんて聞かない。

なぜこんなことになってしまったのか。

人に負けるな、同じクラスの〇〇ちゃんには負けるな、常々そういわれて育ってきた私は、自分より少しでも秀でてる部分がある人のことは徹底して嫌ってきた。

「お前のせいで、私の親からの信用はがた落ちだ、怒られる。」

そんな強迫観念の元生きてきた。

高校は、優秀な進学校に進んだ。

大学は、国立大学に入った。

そこそこ大きいところに就職できた。

そのおかげで、高校、大学ともに、『小中学校時代にライバル視していた同級生たち』には表面上勝つことができた、いや、勝ったつもりになっていた。

だが、その心の安寧も、やがてすぐに崩れ去ることとなる。

 

20代も半ばに差し掛かるころ、ちらほらと同級生たちの結婚や出産の話が聞こえてきた。

親には「みんなママになって家庭持ってるのに、あんたは…」

私は社会人1年目。

今まで勝っていたと思っていた小中学校の同級生たちに、またしても負けてしまったのだ。

中には、高校を中退して結婚したものもいる。

だが、そんなこと、大人になったら、結婚適齢期の女になったらどうでもいいのだ。

20代半ばにもなると、その「勝ち組の女」の指標は『勉学や出身校』ではなく『結婚、出産』にだんだんと移っていくのだ。

私の心は、まだ学生のままであった。それも無理もない、つい1年前まで学生生活を送っていた22歳だ。まだまだ自立していない子供だ。

私は非常に焦りを感じた。

高校、大学と勝ち誇った気になっていた。

だが、私は、またしても、20代半ばにして自己の劣り具合いを痛感することになる。

そんなことになろうとは、思いもしていなかった。

 

焦りに焦ってつないだパートナーシップは、それはもうひどいものであった。

半ばDVのような男、マザコン男…

「ただ勉強を頑張れ、勉強こそが学生の本分だ。」

その言葉を信じて人間関係、異性関係をないがしろにしてきたツケが、ここで回ってきてしまったのだ。

 

こうして私は、今までろくに勉強もせず遊び歩いていた人たちに、学校に来ずセックスをしていた人たちに、この年になってまたしても敗北を喫したのだ。

 

そんな強烈なコンプレックスを抱えたままこの年になってしまった私は、自身の中で、『彼氏がいない、満足な男女関係を築けない=負け組』という方程式が確立されてしまった。

 

だからなのであろう、自分に彼氏がいないときは周りの誰の幸せも願うことができないのは。

彼氏がいることだけがその人間の価値を決める、そんなことはどう考えてもおかしな尺度であるのに、私の中ではその指標が根強く残ってしまっている。

理性ではわかっているが、心が認められない。

そのせいで、誰かに彼氏ができた、結婚するなどという話を聞けば冷たく当たってしまうし、避けてしまう。

その人と並ぶと自分の劣等感が浮き彫りになるからだ。

 

そんな間違った認知を、少しでも修正していかないと、今後もあらゆる面で生きづらさが生じてくるであろう。

理性ではいやというほどわかっている。

今現在の課題の一つでもあるのだが、心に深く刻まれた傷からあふれ出てしまうどす黒い静脈血のような感情は、止めるにも難しい。

 

そのためにも、己自身の価値観を『他人と比べる』ことで評価するのではなく、『自分自身』に基準をおくことに努めたいと思う。

自分が幸せなら、幸せ。というように。

いわゆる自愛につながるとおもうのだが、それが難しい。

約4年間、独身である自分への痛烈なコンプレックスと闘い生きてきた。

先日の痛ましい事件も、きっと、焦りがあったがゆえに、その衝撃が大きくなってしまったのだろう。

毒親のもとで育った私は、とても自尊心が低い。

自分を愛し、幸せにしてくれるのは自分だけ。自分を認めてくれるのは、自分だけ。

自分がいつでも自分の味方でいてくれるようになるにはまだしばらく時間がかかりそうだ。

 

先日の彼と、または違う人と出会うまで、この性格を、ゆがんだ認知をただし生きやすくなるためにも、今日も明日もこれからも私の見えない水面下での闘いは続いていく。